今夜も眠れない

月山夏世は某駅前で途方に暮れていた。時刻は深夜1時前。終電を終えた駅は始発までシャッターを下ろしたままのはずだ。
夏世は4月から新人漫画家を担当していた。新人漫画家は、花園ゆり子(主に修)ほどの変人ではなく人使いが荒いわけでもない。しかし修羅場は本当の修羅場だった。
今にして思えば、花園ゆり子は複数連載を抱え、多忙を極め、アシスタントもいないにも関わらず、夜はきちんと寝ていた。漫画編集とは無関係の雑用で夏世が片岡家に泊まり込んだ日も、あの4兄弟は悠々と夕食を食べ、風呂に入り、パジャマに着替えて寝ていた。
「航さんのパジャマ姿……」
ついでに思い返して頬が緩むが、そんな場合じゃないと首を振った。
ところが今は、〆切間際の完全徹夜は当たり前。
今日は幸いにも深夜前に原稿があがり、すんでのところで終電に滑り込めた。電車内で幸いにもイスに座れた。そして連日の不規則な生活で睡魔に襲われ、降りるべき駅を通り過ぎ、終電の辿り着いた先が夏世の現在地であった。

こんなことになるなら、ケチらないでタクシーを使えば良かった。
いまタクシーに乗りたくても、タクシーは影も形もない。
原稿を入れた鞄を抱えて、その場に座り込んだ。
航さんに会いたいよー。
今日も電話できなかった。せめて声だけでも聞きたい。
でもなー、絶対迷惑かかるもんなー。
「よし、メール打っちゃお」
”こんばんは。やっと仕事が終わりました”
今すぐに読んでくれなくても、航の電話に連絡できただけで満足だった。

すぐに夏世の携帯電話の着信音が鳴った。
「航さん!?起きてらしたんですか?」
『はい』
携帯電話のスピーカーから聞こえる声だけで、夏世のテンションが上がった。
「もしかして、私起こしちゃいました?」
『いいえ。ところで、今どちらに?』
「○×駅前です」
『終電は終わってますよね?』
「……はい」
『タクシーも無いんですね?』
さすが。航さんは何でもお見通しだ。
「あ、でもファミレスとかで始発まで時間をつぶすので全然大丈夫です!」
そう言ってから周囲を見渡したが、寂れた駅前に店の灯りは無かった。

『本当ですか?』
「ごめんなさい。嘘です」
『30分くらいで行きます。近くに自販機があるなら、温かい飲み物を買って待っていてください』
「はい」
夏世は通話を切ってからクシャミをした。梅雨入り間近。昼間は暖かかくても夜は冷える。駅前の自販機で温かいコーヒーを買った。花壇のふちに腰を下ろし、足元に鞄を置いた。両手でコーヒー缶を包み込むように持つ。

30分を少し過ぎた頃に夏世が待つ駅前にタクシーが着いて、航が降りた。鞄を持つ夏世の手を引いて2人で後部座席に乗った。
夏世が航に促されて、自分のアパートの住所を運転手に告げると、タクシーは走り出した。
「あの、すみませんでした」夏世がうつむいたまま謝った。
「いえ」航は返事をしてから窓の外を見て、言葉を続けた「本当は」
「え?」夏世が聞き返した。
「貴方にタクシーを呼ぶように勧めれば良かったのだけど」
「……」携帯電話があれば最寄りのタクシー会社を調べることも呼ぶことも出来たと、夏世は今さら気づいた。
「その方が貴方も早くタクシーに乗れたでしょうから」
航がタクシーに乗って迎えに来るよりは、夏世が自分でタクシーを呼べば幾分早く駅前を出発できたはずだ。
航はそれっきり言葉を続けず、夏世もまた口を閉じたまま、無言の2人を乗せてタクシーは走った。

夏世のアパートの前でタクシーが止まり、夏世はタクシーを降りた。
タクシーに残った航が「それじゃ、おやすみなさい」と言い終わらないうちに、夏世が運転手に紙幣を渡し、航の手を掴んでタクシーから引きずり下ろした。
「おつりはいいです。行っちゃってください」
自動でドアが閉まり、タクシーは走り去った。
「え?あの?」タクシーが走り去った方角を見て、夏世を見て、キョロキョロする航。
「ご迷惑なのはわかってます。でも」
「わかりました。おじゃまします」

夏世が自分の部屋の鍵を開け、2人は夏世の部屋に入った。
「コーヒーでいいですか?」
「いえ、お構いなく」
――すぐに、おいとましますから。
航に言外に言われているように、夏世は思えた。
小さなテーブルの差し向かいに座った2人。
「怒ってます?」
「はい」
夜中に迎えに来させた挙げ句に引き留めてしまった。きっと相当怒っているはずだ。
「貴方は勝手な人だ」
「すみません」
花園ゆり子時代から、この人には何度謝ったことだろう。
「僕たちにはあれだけお節介をやいておいて、貴方自身は全く頼ってこない」
「はい?」予想外の言葉に、夏世は頭を上げた。
「僕が迎えに行かなかったら、どうするつもりだったのですか?
 夜中に人気の無いあんな場所で夜明かしなんて無茶にもほどがある。
 どうして僕に電話をしなかった?」
「もう、おやすみ中かと思いまして」
「眠れるわけないでしょう!?」
航の剣幕に夏世は身を縮めた。

航が夏世の様子に気づいて「すみません」と言って咳払いした。
「僕から電話をかければ良かったのですね。ただ最近お忙しそうにしていたので、その、束縛するようなことは避けようと思ってました」
誰かを束縛する、航とは最も縁遠い言葉だったはず。
「僕がタクシーを呼ぶように勧めなかった理由もわからないでしょう?」
「……」
夏世からの返事はなかった。

航が口を開いて息を吸った。
「僕が貴方に会いたかったからです。
 駅に向かうまでの間、夜中に1人で待つ貴方が心配だった。
 心配ならばタクシーを呼ばせれば良かった。でもできなかった。
 タクシーの運転手が邪な考えを持つような人間だったらどうする?と不安になったからです。
 そんなこと滅多にあることじゃないのに、あるわけないのに、心配でどうしようもなくて、僕が迎えに行くしかないと思ったのです。
 だけど迎えに行ったのは、心配だったからだけではありません。
 駅からここまでの短い時間でも貴方に会って顔が見たかった」
そこまで言い切ってから夏世を見た。
夏世はテーブルに突っ伏していた。
「月山さん?」
「夏世って呼んで〜」顔を伏せたまま答えた。
「え!?」誰もいない周囲をキョロキョロ見回した。
「か、か、よ?」
夏世はそれっきり返事をせず航は再び「月山さん?」と呼びかけた。
身を乗り出して耳をそばだてた。夏世の寝息が聞こえた。
「……勝手な人だ」
目を覚ましたら「どこまで聞いていたんですか?」と尋ねてみよう。
航の眠れぬ夜は始まったばかりだった。