ズル休み

早朝、東条巧巳は目覚ましのアラームよりも早く起床した。アラーム時刻を1時間以上遅らせたのは随分前のことなのに、体に染みついた起床時刻は野球部の練習に明け暮れた日々のままだった。
――また、つまらねえ一日が始まる。
適当に制服を着て、適当に朝食を食べて、適当に家を出た。

「留年になった。」一週間前に父の単身赴任先に電話をかけた。
父が「留年なんてみっともない。」と叱るならば、「退学する。」と言うつもりだった。
しかし父は叱らなかった。留年の理由も聞かずに「そうか。」と言っただけだった。翌々日には一年分の授業料が支払い済みになっていた。これは「退学は許さない。」という父の意思表示なのだろうか、それとも単に事務手続きをしただけの事なのだろうか。
「どうでもいい。」言葉を口に出してみたら、あまりにもあっけなくて虚しかった。

もうすぐ3月も終わる。
一年前に入学した東条巧巳を超高校級球児ともてはやした教師や生徒は、あの夏の日の終わりから目も合わせなくなった。東条巧巳が教室に入ると、談笑の声がピタリと止んで緊張した空気に変わるようになった。学校に自分の居場所は無かった。
友達と呼べる人間も去り、腫れ物をさわるような扱いだった東条巧巳に声をかけてきたのは、坂本晶だった。誘われるままに軽音部に入部した。おかげで少しは学校で持て余す時間が減った。

野球部が朝練を始める前に学校に着いた東条巧巳は、中庭の木に登って仮眠をとることが日課だった。しばらくすると、金属バットの打球音や掛け声が遠くで聞こえてきた。
「けっ。」と小さく悪態をついた。耳障りな音だった。

来年度の入学式を間近に控え、学校中がざわついている事に気づいたのは昨日の事だった。
「倉鹿修学院の山本春海が入学するらしい。」
その話題で持ちきりだった。去年の中学野球大会の優勝ピッチャーだとか、剣道でも全国大会で優勝したらしいとか、入試の成績がダントツでトップだったとか、あらゆる噂が山本春海の賛辞だった。
――まるで一年前の誰かさんじゃねえか。
自嘲気味に呟いた。

山本春海。
聞き覚えのある名前だった。たしか中学3年の夏の野球大会の準々決勝戦の相手校のピッチャーだ。連戦連投の疲れも感じさせずに、強力な里見打線をもってしても打ち崩せなかった。最後の最後でようやく本塁打を放てたが、半分はまぐれ当たりだったと思っている。
倉鹿修学院の野球部員が号泣する中で、たった一人帽子を目深に被って淡々とベンチを後にする姿が印象的だった。
野手がどんなに守備を固めていても、本塁打を打たれたら手も足も出ない。本塁打を打たれた原因は、捕手の配球ミスか、投手の力不足か、それとも運が悪かったのか。
号泣するチームメイトの輪の外にいた山本春海を見て、東条巧巳は投手の孤独について思いを馳せたのだった。
「どうでもいいけどな。」木の枝の上で寝そべりながら、目をつぶって呟いた。

そうだ、この腐った学校で山本春海がどのように立ち居振る舞うのか、興味本位で観察してやろう。
目的もやる気も無く、無駄に長いだけの高校生活の退屈しのぎにくらいはなるだろう。

授業開始を告げるチャイムの音が学校中に鳴り響いた。木の上の東条巧巳はチャイムの音を聞いて、木から下りた。
そして、そのまま学校を後にした。


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